雨の日に

雨が降っているのでランニングに行くのを止めた。それで、やることもないのでブログでも書こうと思って、パソコンの前に座った。気がついたら、10分ほど何もせずに座っていた。何もせずに座っていたといっても、何も考えていなかったわけでなく、ちょっとした考え事をしていた。

 

何を考えていたかというと、「わたしは何をやっても続かないなあ」ということだ。何かを始めても、どうしても長続きせずに途中でやめてしまう。最初だけは意気揚々とやり始めるのだけど、1か月ぐらいすると、急にガス欠になるというか、興味を失ってしまう。原因は何だろうか? ひょっとすると目標設定が高すぎるのかもしれないし、はたまた、あれこれ手を出しすぎてしまうからかもしれない。

 

原因は数え上げるとキリがないのだが、どうも肝心なことが一つあるような気がする。結局、あれこれやってみても、情熱を注ぐだけの価値があるものに出会えていないから、何をやっても続かないのかもしれない。心血を注げるだけの何かが見つかるということ自体、そもそも稀有なのだし、続かないのは当たり前といえば当たり前なのだが、理屈ではわかっていても感情の部分では、どうにも腑に落ちない。もちろん、続けていうちに湧いてくる情熱もあるのだろうが、それを待ち続けることができる人間は、そもそも私のような悩みを抱えないと思う。

 

この前とある英語のブログを見ていたら、「a labor of love or a struggle」という表現に出会った。なかなかいい表現だと思う。私がやることは、ほとんど全てがstruggleになってしまっているような気がする。何事も自主的に始めるようにはしているので、その意味でスタート地点はa labor of loveなのだろうけど、徐々にうまくいかないことや、面倒なことが蓄積してきて、いつの間にか、それはstruggleになってしまう。そこでもう一度、軌道修正できればいいのだが、私にそこまでのガッツはない。私という人間は、根っこの部分がクズなのだ。

 

「その道何十年のプロ」をテレビやネットで見るたびに不思議に思う。何が彼らをそこまで駆り立てるのだろう? どうしてそれを続けようとする情熱が湧いてくるのだろう? 考えてみると、本当に不思議だ。もしかすると、彼らがそれを続けようとするのは、遺伝子に組み込まれた一種のプログラムなのかもしれない。そんな気すらしてくる。たまに「気力の限界」みたいなことを理由に止めていくスポーツ選手を見るが、本当に気力の限界で引退するのだろうか? もしかすると、遺伝子に刻み込まれた「気力減退スイッチ」が、ある瞬間にONになっただけなのではないか? 本当に気力がなくなったことが理由なのだろうか? 考えても答えは出ないが、気になってしまう。

 

そういえば、この前ちょっとした旅に出た。無心で見知らぬ街を歩くのはとても気持ちがよかったし、あの時は、なんというか、活力が満ちていた。たぶん、そういうメンタリティを常に持ち合わせていれば、こんな悩みも抱えないのかもしれない。旅は無計画に、ふと思い立って出たものだ。特に何も考えもせずに。「気がついたらやってしまっていた」ことだ。振り返って思うのは、結局、旅のように気楽にできることでなければ、続かないということだ。続かないなら続かないなりに、気楽にできる瞬間の訪れを待つのも大事なのかもしれない。よくわからないけど、たぶん。