あえて夜に文章を書くこと

「夜に書いた手紙は朝読み返せ」とよく言われる。夜はどうしても感傷的になりやすく、妙にじめじめした文章を書きがちになるから、というのがその理由だ。確かに、真っ暗な中で1人座っていると、過去の暗い記憶が蘇り滅入った気分になったり、妄想の世界に沈み込みやすくなる。だから、この教訓はあながち間違っていないと思う。だが、今、私はこの文章を夜に書いている。

 

昔からそうなのだが、どうしても真夜中の方が集中できる。みんなが寝静まっているから、昼間のような騒音はない。明かりが照らす作業スペース以外は全て暗闇に包まれているから、余計なものが目に入ることもない。そんなわけで、自分だけの空間(世界)を作り上げるのには、真夜中がもってこいなのだ。多くの作家やクリエイティブな職種に携わる人たちが夜型なのもうなずける。夜の方が、創造意欲を湧きたてられるのだ(もちろん、これは推測で、実際には朝型の作家の方が多いかもしれない)。

 

「朝活」「早起きは三文の得」のように、朝の活動にはどうしてもポジティブなイメージが付きまとう。一方で、夜にはネガティブなイメージを連想する。それで、みんな「健全な」生活を送ろうと、早起きを心掛ける。でも、そうやって「健全に」「明るく」生活することだけで満足なのだろうか? 夜という刺激も無しに、21時にはベッドに潜りこんで夢の中へ…。そんな生活を想像すると、なんというか、少しだけ損をしている気分になってしまう。

 

思うに、夜には夜のポジティブさがある。それは日が差し込んでいる間には得られない特別なものだ。ついつい夜更かしをしてしまう人は、朝には得られない別種のエネルギーを求めている。私が夜に文章を書くのも、そういった理由からかもしれない。

 

夜に文章を書くと、朝に書くのとは全く違った性質の文章ができあがる。大げさな表現かもしれないが、夜に書く文章は「オーラをまとっている」ような気がするのだ。毎回そうした文章が書けるわけではないのだが、時おり、どこかから霊的な何かが降りてきて、自分じゃない誰かが、自分の代わりに文章を書いてくれているような気分になる時がある。これは、朝に文章を書いていては絶対に得られない感覚だ。

 

多少感傷的になろうが、卑屈な文章を書こうが、夜に書いた文章の方が後で読み返すと面白いことが多い。それなら夜に書くことを選びたい。そもそも、文章は自分を楽しませるために書いているのだから、満足感が得られなければ書く意味なんてないのだ。

 

ということで、この文章は夜に書いた。朝になって読み返したら、恥ずかしくなって、モニターの前で顔を真っ赤にしている自分がいるかもしれない。まあ、そのときはそのときで。

 

雨の日に

雨が降っているのでランニングに行くのを止めた。それで、やることもないのでブログでも書こうと思って、パソコンの前に座った。気がついたら、10分ほど何もせずに座っていた。何もせずに座っていたといっても、何も考えていなかったわけでなく、ちょっとした考え事をしていた。

 

何を考えていたかというと、「わたしは何をやっても続かないなあ」ということだ。何かを始めても、どうしても長続きせずに途中でやめてしまう。最初だけは意気揚々とやり始めるのだけど、1か月ぐらいすると、急にガス欠になるというか、興味を失ってしまう。原因は何だろうか? ひょっとすると目標設定が高すぎるのかもしれないし、はたまた、あれこれ手を出しすぎてしまうからかもしれない。

 

原因は数え上げるとキリがないのだが、どうも肝心なことが一つあるような気がする。結局、あれこれやってみても、情熱を注ぐだけの価値があるものに出会えていないから、何をやっても続かないのかもしれない。心血を注げるだけの何かが見つかるということ自体、そもそも稀有なのだし、続かないのは当たり前といえば当たり前なのだが、理屈ではわかっていても感情の部分では、どうにも腑に落ちない。もちろん、続けていうちに湧いてくる情熱もあるのだろうが、それを待ち続けることができる人間は、そもそも私のような悩みを抱えないと思う。

 

この前とある英語のブログを見ていたら、「a labor of love or a struggle」という表現に出会った。なかなかいい表現だと思う。私がやることは、ほとんど全てがstruggleになってしまっているような気がする。何事も自主的に始めるようにはしているので、その意味でスタート地点はa labor of loveなのだろうけど、徐々にうまくいかないことや、面倒なことが蓄積してきて、いつの間にか、それはstruggleになってしまう。そこでもう一度、軌道修正できればいいのだが、私にそこまでのガッツはない。私という人間は、根っこの部分がクズなのだ。

 

「その道何十年のプロ」をテレビやネットで見るたびに不思議に思う。何が彼らをそこまで駆り立てるのだろう? どうしてそれを続けようとする情熱が湧いてくるのだろう? 考えてみると、本当に不思議だ。もしかすると、彼らがそれを続けようとするのは、遺伝子に組み込まれた一種のプログラムなのかもしれない。そんな気すらしてくる。たまに「気力の限界」みたいなことを理由に止めていくスポーツ選手を見るが、本当に気力の限界で引退するのだろうか? もしかすると、遺伝子に刻み込まれた「気力減退スイッチ」が、ある瞬間にONになっただけなのではないか? 本当に気力がなくなったことが理由なのだろうか? 考えても答えは出ないが、気になってしまう。

 

そういえば、この前ちょっとした旅に出た。無心で見知らぬ街を歩くのはとても気持ちがよかったし、あの時は、なんというか、活力が満ちていた。たぶん、そういうメンタリティを常に持ち合わせていれば、こんな悩みも抱えないのかもしれない。旅は無計画に、ふと思い立って出たものだ。特に何も考えもせずに。「気がついたらやってしまっていた」ことだ。振り返って思うのは、結局、旅のように気楽にできることでなければ、続かないということだ。続かないなら続かないなりに、気楽にできる瞬間の訪れを待つのも大事なのかもしれない。よくわからないけど、たぶん。

 

 

 

作っては消し、作っては消し

再びブログへ

ブログを立ち上げては消す、というのを繰り返している。

 

どうも自分が書きたい内容と書いている内容に差があって、違和感があり、満足できないからだ。これまでに消した記事の総量を考えると優に200記事を超える。別に後悔はしていないし、反省する気もないのだけど、何かを表現する(もしブログが表現といえるのであれば、だが)難しさみたいなものを痛感している。別に自分は完璧主義者でもないし、ブログでお小遣いを稼ごうという気も(今のところは)ないのだが、どうもこう、名状しがたいもやもや感みたいなものはずっと胸に残り続けている。

 

思うに、ネットというパブリックな場、それもちょっとしたことで炎上してしまうような危険な場所に、自分の考えていることをつらつらと書き連ねることに、無意識に拒否感というか、不快感を抱いてしまっているのかもしれない。「お前の考えなんか誰も読んでいないし、興味がないよ。自意識過剰なだけだ」という意見は最もなのだけど、生得的に神経質な僕は、そういうささいなことを気にしてしまうのだ。

 

それでも言いたいことは言いたいし、書きたいことは書きたいので、こうしてブログを書いている。日々生活していると、考えごとは尽きないし、好むと好まないとにかかわらず頭の中に思考が蓄積していく。それらの思考はなんらまとまりのない、いわば「思考の断片」みたいなものだ。なんの役にも立たない、どうでもいいものだ。しかし、こうした思考が頭の中で規定値を超えると、それは頭の中で悪さをし始める。すると、どうしてもそれを外に出したくなる。文字という物理的な形で、どこかに吐き出したくなる。ちょっと汚い例だけど、排せつ行為のようなものだ。

 

ストレスというのは、目に見える形で押し寄せてはこない。たぶん、日常的に考えるささいな要素が蓄積して、ある日突然爆発するのだ。だから、僕たちはそれが爆発する前に、爆発源を取り除かなければならない。爆発物処理の方法は人によって違う。ある人は絵や音楽でそれをするかもしれないし、別な人は仕事やゲームに没頭するかもしれない。僕の場合、その手段がブログなのだと思う。だから、何度ブログを消してもアホみたいにブログを再開しているのかもしれない。

 

さて、そんなわけで、ブログを再開した。でも、このブログもいつまで続くかわからない。たぶん、そのうち消すだろう。1か月もてばよい方じゃないだろうか? まあ、ダメだったらその時はその時でブログを閉じて、また新しいブログを作ればいい。結局、「自分のために書く」ということだけは、どのブログで何を書いたとしても変わらないと思うから。